世の中は良くも悪くもコミュニケーションで満ちている:メール文化における「存在の耐えられない軽さ」

投稿者: | 2007年5月26日


メール破産 | Okumura’s Blog

携帯を使う子どもたちもメール地獄に陥っていることがよくあるようだ。パソコンのメール以上に,すぐ返信しないといけないという強迫観念にかられるらしい。

要するに依存症の一種だとは思うが、憂慮すべき事態ではあると思う。

これは、現世の状況理解として読めば、とても共感する問題だ。

自分も、たいした用事でもないのに「なぜ返信しないんだ」と実際に怒られたことがある。

しかし、そういう人達は、そもそもメールというものを「人と人との意思疎通の手段として」どこまで過信しているのだろうか?疑問だ。

メールは、あくまで効率よい「手段」を実現しただけなんだ。意思疎通そのものが簡単になったわけではないんだ、むしろ意思疎通は年々、複雑で難しくなってきているのかも知れない、ということを、あらためて考えるべきである。

昨今、メールという便利な道具を用いて、我々は、頭のなかで感じたこと、考えたことを、「タメ」なく、かつ短文にして発する。そして無意識のうちに相手に共感を求める。少しでも否定的な意見が返ってこようものなら、動揺し、誤解し、被害妄想にすら陥ったりもする。

「なぜ返信しないのか」と言う人、感じる人には、そう考えるのならば、なぜ「受信できたか」「理解できたか」を確認しないのか?という問いにも答える必要がある。
伝えたいのは送信側なんだから、送信者から確認するのが、当然と言えば当然のことであろう。

何しろ、現在使われているメールシステムは、確実に相手に到達することを保証するシステムではない。

すくなくとも、相手にちゃんと読んでもらうような作法について勉強・工夫をすべきだ。(参考記事

コミュニケーションとは、単なる情報のやりとりではなく、人の意思と意思の疎通だから、そこには、相手に誤解されないよう、自分の考えが伝わるよう、最低限の気遣いと作法がある。

たぶん、世の中の多くの人は、本当に伝えたり確認したりしたいことは、メールするだけではなく、電話で確認する。逆に、あえてそこまでしなくても、と思うことなら、返信がなくてもよい程度のものであろうと考える。
そして、その程度のものなら、その人には「送信しなくても」よいことだったかも知れない。

blogと違って、メールは相手の懐に情報を否応なく差し込むPush型だ。ゆえに、その情報の価値判断は、受信者が行わざるをえない。

メールを多用する人は、受け取った情報の価値を受信者に判別させるコストを誘発させている。
そして、自ら発するその情報が、他者から価値あるものとして認識されうる水準を、自ら下げてしまっているのだ。

情報処理や伝達のスピードが限りなく効率化でき、コストを限りなく最小化できた今こそ、考えてから行動に移すクセをつけること、本当に伝えたいことは何か、そしてそれは誰に伝えるべきなのか、立ち止まってじっくり考えてみることが、必要なのだと自省する。

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