参加しましたよ「群衆の叡智サミット2007」最前列で。

なぜかこういう場では最前列が空いている。
視力が弱めなのに、割と時間ギリギリ行動な自分としては、ありがたい傾向。

議論に尻切れ感というか、消化不良感がありつつも、示唆が散りばめられた、良い内容でした。
それにしても、消化不良が次への行動の源泉だ、ってのは絶妙な殺し文句ですね。

で、感想。

  • WoCを成立せしめる条件として「独立性」というものがあるわけだが、それは他人同士の独立だけではなくて、自分自身、例えば、このリアルワールドにおいてある特定の立場を持った自分、過去の自分(の言動)、からの独立ということもキーになってきそうな気がした。
    もちろん自分の所業をチャラにして完全に独立というわけではなくて、素の自分をバックグラウンドにしながらも、目の前に課せられた問題に対しては、バイアスをかけないで考えてみる、という意味で、ネットというのは地理的・時間的な制約を飛び越えるのみならず、リアルを目の前にして立往生しがちな自分から半分幽体離脱した、しがらみから開放された状態をも感じやすい環境ということであり、群衆の叡智を実現するプラットフォームとしては今のところ有効に活用しうる可能性を秘めているということか。
    しかし、その開放感がまた「感情の開放」を誘発したり、「水は低位に流れる」誘惑の源泉でもあるわけだが
  • 山崎晴可「群衆の叡智を、feel(感じる)と仮説している。「統計と集合知の違い:thinkとfeel(仮説)」。統計はthink的であり、論理的なところは長所だが、予断があり、制御・操作が容易であるという短所を持つ。集合知はfeel的であり、非論理的なところが短所であるが、実体あり(空でない集合)、制御の困難(操作が難しい)、という長所があると考える。企業において集合知が受け入れづらい理由として、会社組織は、thinkの階層構造である。健全な組織ほど、thinkの親和性は高い。」・・・目から鱗。
    「企業における集合知」問題の核心をついている。一般的に企業というものは大企業であればあるほど多くの人の集合であり、各人のfeelが野放図に発揮されないための足かせとして組織化をしているわけで、feelを大組織に取り込むためには、いままでの組織論というか会社の形態そのものを根本的に変えないと難しい気もしてくる。
    ただ「この魚は食えると思うか?」という問いのように、マズローの欲求段階で言えば最下層に位置するような問題であれば直感的にfeelを発揮できるが、問題の論点が欲求段階の階段を登るごとに、feelだけでは真っ当な答を出せなくて、それなりの知識を以ってthinkしなければ、よりよいfeelもできない、たとえfeelしたとしても本当に実感したかったことからかけ離れてしまう、とも感じる。
    IBMの事例(PDF形式):やっぱりIBMは巧いなあ
  • 各個人が、自らの意見や知恵を群衆に向かって差し出しうる条件として、各個人に対するなんらかのインセンティブが必要であることは自明だが、ここでいう各個人という言葉の指すものが、「生存」や「安全」を脅かされる立場の個人であれば、「生存」や「安全」が確保できるための「情報(または金銭等、なんらかの実体)」になろうし、「生存」と「安全」をある程度の見通しで確約され「親和」や「自我」を求める立場であれば「仲間の存在」や「称賛のフィードバック」といった「情報(または金銭等、なんらかの実体)」がインセンティブとなろう。
    つまり明日生きる術もなく苦しんでいる人たちがたくさんいるなかで、マズローの欲求段階において「上の段」にいる人たちがすべきことが、自分たちと「同じ段」にいる「叡智を出しうる群衆」の母数を増やすことだとすれば、「下の段」にいる人たちがどうしたら「上の段」により多くあがれるのか、を考え実践すべきである・・・ということを、自分自身が「上の段」にあがろうと努力すると同時に、忘れずにいたい。
    「この地球上で相対的に裕福で平和であると言えるこの日本に住んでいる恵まれた我々は群衆の叡智を他に伝える義務があると思う」という兼元謙任氏の言葉を、称賛する
  • 兼元謙任「Q&Aでの「ありがとう」を会社の指標にしようとしているが、株主にはなかなか響きづらい」・・・この言葉には、欧米人の論理でこの世界を牛耳ってきた資本主義の具現化たる「株式会社」というものに対する問題提起であるような気がして、非常に興味を覚える。
    金で買えないものをたくさん持つというのが、本当の裕福であり、これから求められることなのだと、我ながら自分の境遇を棚にあげて青臭いなとは思いつつも、そう信じたい。
    自分が老いたときには年金だって、この国すらどうなっているのか分からない今、信念を曲げてまで金に執着し長生きしたってろくなことにはならないと思う
  • オープンソースの話。三浦広志「どちらかというとthinkでOSSに取り組んできたが、パッション(feel)のある人たちにどうしてもかなわない」実感のこもった、いいカミングアウトだった。
    この日本のSI業界の頂点に君臨するNTTデータすら、悩んでいる。
    いやむしろ頂点だからこそ、悩みも大きいのかも知れない。この問題は、SIerの抱える根元的な問題にも通ずるものがある気がしている。
    高木浩光「どういうOSSプロジェクトが成功するか?みんなが「こういうものが必要だ」と思っているものでないと、ソースコードをオープンにしたからといって成功するわけではない」だが一方で、多くのOSSは企業から参加した開発者に少なからず依存しているという現実。
    ということで、過去から連綿と繰り返されてきた我々システム屋の独りよがり(単独SIer内という意味でも、SIer界隈の業界内で閉じていると言う意味でも)の暴走にたいして、本当のユーザニーズが生み出した対抗策がOSSなのだとすれば、企業とOSSコミュニティどちらにとっても、現在の状況は皮肉であるが、どうにかして乗り越えていくべき壁であると再認識した
  • OSSは誰が責任を持って直すか?という問いについて・・・商用ソフトウェアであっても、OSSであっても、どちらも最後はユーザ自身に責任がある。だとしたら、ソースコードがユーザの手中にあること自体が重要なのだろう
  • 「群衆の叡智はプライスレス」・・・小飼弾「叡智自体は0円。何かを知っていること自体に価格はつかない。叡智の価格はマクドナルドのスマイルと同じ。その叡智・知識を用いて行動して初めて価値というものが生まれる」「群衆の叡智の価格は0円のままにしておいたほうがよい。価格をつけた瞬間に所有する・しない、誰がどれだけ持っている、という話になり、群衆の叡智として使いづらくなる」目が覚めますいつもながら。#追記:ご本人から「主張まとめ」があったんでリンクしときます。→「叡智の値段
    叡智を集めて公開しないという非対称性、叡智の循環をせき止めることで重大な価値(権力、利権)を生むということを、もっとも良く知っているのが高級官僚や大企業のトップなのだろうきっと。そういう流れに乗っていない別の世界でネットを利用して群衆の叡智が集まり、せき止められることなく循環して、人々の行動の源泉になっていくとしたら、確かに「群衆の叡智元年」は革命前夜的な響きにも聞こえる。
    だが、中世の王族・貴族が革命に倒され表舞台から退場していく歴史を、現在の支配者の側も、我々群衆と同じように学んでいるとしたら、革命といっても、流血を伴い一夜にしてセンセーショナルに変革するというのではなく、今の支配者達の「老衰」にあわせて緩やかに進行していくのであろうと思われる。
    そうした目に見えづらい流れを、この広い世界に散らばった「兆候」を拾い集めることによって認識して、常に半歩でも先取りすべく努力することが重要だ。
    先取りが無理なら、せめて流れには乗れ、ということか